岩澤先生の思い出


[Kenkichi Iwasawa]

 美しい整数論の世界「岩澤理論」を創始された岩澤健吉先生が1998年10月26日に81歳でお亡くなりになりました。大学4年生のころから岩澤セミナーに出席する機会にめぐまれ、以来偉大な数学者として、またその高潔なお人柄に尊敬の念を抱いておりました。あまり仰々しいことをするのを先生は好まれないでしょうから、あのときこうおっしゃっていたなあということを少しずつ思い出してひかえめに書いてみようと思います。

 岩澤先生の名講義はいろいろな場面で語られ、名高いものでした。プリンストン大学での一番弟子のGreenberg氏によると「先生の講義は、非常に美しく、完璧に構成されていた。もっとも驚くべきことは、先生はいつもノートも何もを見ずに、講義されていたことである。私が覚えている限り、この例外はたった一回しかなかった。このとき先生は、ポケットから小さな紙を取り出して、それを一瞬ちらりと見て、すぐに講義を続けられたのである。本当にこの一回きりしかなかった。」さらにフェルマーの最終定理に決着をつけたWiles氏によると「私はプリンストン大学に移っての最初の4年間、岩澤さんとご一緒することができました。それは岩澤さんにとって、プリンストン大学における最後の4年間でした。その頃には、岩澤さんの大学院の講義のただごとでない完璧さは、すでに伝説のように語られるものとなっていました」(いずれも「数学の楽しみ-岩澤数学の全貌:その豊穣の世界」(日本評論社)より)

 私が駒場での土曜セミナーに出席するようになったのは1990年、大学4年生の秋でした。このセミナーにはほぼ毎週岩澤先生が出席され、別名「岩澤セミナー」と呼ばれていました。基本的に整数論の話題が中心で、さすがに岩澤先生を前にしての講演はレベルが高く、院生の私には大変でしたがずいぶんと勉強になりました。なお、このセミナーは私の師匠の中島匠一先生が世話役をされ、藤崎先生、三輪先生、草葉先生、堀江先生、市村先生、朝田先生、山村先生、福田先生、諏訪先生、栗原先生、青木先生、田口さん、山岸さん、川内さん、田谷さん、藤田君、八森君、都地さん、松野君、落合君らが主な出席者でした。加藤和也先生の体論の講義のときに「岩澤先生という偉い先生が土曜日に駒場にいらっしゃっている」と聞いたのが土曜セミナーを知った最初だったように記憶しています。

[a note by Iwasawa]

 このセミナーでは、講演の終了後、出席者で喫茶店に昼食を食べに行くのが慣例でした。お店は、大学のそばの三叉路、モーゼル、イーグルなどでした。岩澤先生の席の近くには講演者と若い人が座るようにということで、遠慮のない私はずいぶん隣に座らせてもらいました。そして「Greenberg予想は正しいと思われますか?」とか「先生の論文のここはどういうことでしょうか?」とか臆面もなく聞いていたものです。 また、何度か「先生の講義をぜひ受けさせて下さい」とお願いもしました。残念ながらその頃すでに先生の体調は万全ではなく、一度は講義が予定されていたものの実現されませんでした。(土曜セミナーの初期の頃にはお話されたこともあったそうです。)右のノートは1992年春頃に先生が私たちに示された問題で、修士論文の一つのテーマになりました。

 講義はついに受けることができませんでしたが、「どうしたらよい講義ができるのでしょうか?」という質問に対してはお答え下さいました。

「多くのことを話そうとせず、話題をひとつに絞って話すことです。」

 私のように教育経験が浅い者は「あれも、これも」と話して、結局記憶に残らない講義になってしまうものです。ひとつを絞る潔さ、そしてその大事なひとつを印象深く話せることが大事なのでしょう。とはいっても、頭で分かっていてもなかなか実行できないのが常です。日々の講義や演習のなかで、先生の言葉どおりにできない自分をもどかしく感じます。


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